『法句譬喩経』とは、およそ750の偈頌が伝えられている漢訳の『法句経』各品(各章)の中からそのいくつかを取り沙汰し、といってもその分量は三分のニにも及ぶのですが、それに寓話を付して説くことによってその偈文の意義内容を広く説いてる経です。よってこれは、ただしく経典というよりもむしろ『法句経』の注釈書的典籍です。
ここではその『法句譬喩経』から、特に「なぜ読経するのか?」という問いに対する一つの回答・根拠となるものとして、そのとある一章を紹介しています。
古来、これは必ずしも日本人に限ったことでもないのですが、日本ではその人が真に仏教徒であろうと仏教徒でなかろうと、「読経する」ということが当たり前のように行われています。しかしながら、その当たり前に行われている読経という行為について、なぜ行っているか考えたことすらない人が相当多い、いや、ほとんどであるように思われます。それはおそらく、親がやっていたから、みんなやっているから、というような理由で、なんとなく習慣としてやっている、ということであるのでしょう。
そして、巷 には「ホトケサマにお経をあげる」などと言って、仏・菩薩の像や誰か高僧の像などの前であたかも一曲やるかのように読経をする人が、これは僧俗問わずにあります。けれども、そもそも経典とは、仏陀やその高弟が我々のために説かれた教えが伝えられ、記されたものです。したがって、「ホトケサマにお経をあげる」などというのは「釈迦に説法、孔子に悟道」。それを文字通りやっているようなものでまさに本末顛倒、「逆さま事」に他なりません。
「顛倒」を打ち破るのが仏教であるならば、その仏教の経典を読むにおいて「顛倒」を行うとはこれいかに。
したがって、何もわからず、理解せず、ただしかつめらしい顔で仏前で読経するだけならば、それはまったくもって滑稽な行為。まるで落語であるとすら言えましょう。それがいくら心を込め、一生懸命行っていることだとしても、それはまるきり無駄な、愚かしいことです。
現代、やはり「なぜ経を読むのか?」という素朴にして根本的な疑問に答えるべく、寺家や葬儀屋はてまたは石材屋などがもっともらしい説明を加えようとしているのをよく見聞きします。しかし、彼らのその説明のほとんどは、あくまで「もっともらしい」・「それっぽい」ことに過ぎず、なんら仏教としての根拠が無いままなされています。「無根拠であることはマズイ」という意識が多少なりともあるからこそ、そのようなもっともらしいことを言うのでしょう。けれども、その云うことがデタラメであれば、結局は無根拠であることに変わりありません。それはただ自らの営業のため、利益誘導のためになしている欺瞞とすら言える。
「いや、私は釈迦に説法などというつもりなど毛頭なく、ただ死者の鎮魂のため、先祖の供養のために経を唱えているのだ」
「仏といっても、日本では亡者は皆ホトケなのだろう?だから、それに対して経をあげているのだ」
「私の場合は、ある願いを叶えるために経を毎日読誦している」
これらに似たようなことを言う人は現実に多くあります。そうして、そのことについて何か言おうとするならば、ただちにこのような主張をしてくる人も少なからずある。
「唱えている経典の意味などわからない。しかし、わからずとも心が大事、そうしたいという気持ちが大事なのだろう?ならば、これでいいのだ!」
むしろそのような人こそ一度考えてみて欲しいことがあります。それは日本ではよく死者を悼んで何かすることについて用いる「菩提を弔う」という言葉についてです。不佞は彼らのいう意味でのこの言葉がいかなる事態を想起して用いているのか理解出来ない。
菩提を弔う…?
「菩提」とは、サンスクリットあるいはパーリ語などのbodhiの音訳(音写)であり、目覚めること、特には真理を明らかに知ること、いわゆる悟りを意味する語です。そしこれは日本においてのことですが、「菩提」という語は、菩提を得たものの心的状態を意味する涅槃(nirvāṇa)に同一視され、またその涅槃については、完全な涅槃を意味する「般涅槃(pari-nirvāṇa)」が菩提を得た者の死を意味するものであることから、「菩提⇒涅槃⇒死」と連想し、死を意味するものとして用いるようにもなっています。そして「弔」とは、(死を)悲しむ・傷むを意味する漢字であり、それに対する日本語の訓である「とぶらう(→とむらう)」は、訪ねる・尋ねる・探すの意です。それが転じて人の死を傷み、遺族の元を訪れて慰めることを「とぶらう」と言うようになったようです。
そこで「菩提を弔う」と云った場合、仏教からの見方でこれを解したならば、死者の後生が何処にあるか、今世の果報がいかなるものであるかを知らんと探り、ひいてはそれが悪趣(地獄・餓鬼・畜生)であったならば、そこから脱することを願う、という程の意となるでしょう。
(近親者の後生における苦しみを脱させる術を説くものとして世に著名な経として、『仏説盂蘭盆経』がある。参照のこと。)
しかし、実際はそのような意味では用いられていません。「菩提を弔うの意味?なんだそんなこと、それは冥福を祈ることに同じだ」と言う者もあります。ならば「菩提=冥福」、そして「弔う=祈る」ということであるのでしょう。では、その「冥福を祈る」とはどういうことでしょうか。冥福がその字義どおり「死(後)の福」という意味であるならば、死後があるということを前提にしているのでしょう。そこで、ではその死後とはどのようなものが想定されており、それは一体何に基づいたものであるのでしょうか。また、祈るといいますが、祈りとはなんでしょう。そしてその対象は一体誰、何であるのでしょう。
そのように、様々な不審点を率直に問うたところで、それをどのような形であれ答えられる人など世にまず稀です。現実は誰もそこまでのことなど考えておらず、ただ習慣的にそう言っているだけに過ぎません。
それもよく考えてみたならば、死という人生の一大事についてのことであるにも関わらず、またその死という衝撃を味わうその近親者、遺族らに対してなんら実の無いことを口にしているのであって、誠に不敬でふざけた話であります。が、世人からしてみたならば、とりあえず人が死んだと聞いたならば、条件反射的に「ご冥福をお祈りいたします」と口にしておけば良い、といういわば処世術の一環であるのでしょう。
疑問はこれだけに留まりません。また人がよく云う「供養のために経を唱える」とはどういうことでしょう。なぜ読経することが供養になるのでしょうか。いや、日本ではしばしば「死者・先祖を供養」・「死者の鎮魂のために供養」などといいますが、ここでいう供養とはどのような意味として用いているのでしょうか。さらに言うならば、「日本では亡者は皆ホトケ」といいますが、それは一体どういうことでしょう。それがどういうことかわかった上でそう言っているのでしょうか。そもそも、そのホトケとは一体どのようなものを云っているのでしょう。しばしば世間では、「心・気持ちが大事」と言われますが、それはなぜでしょう。そしてそれは本当でしょうか。
これら日常でよく用いられる言葉のいくつかをとりあげても、結局なんだかよくわからず、考えられもせずに使われていることが相当あります。
実はそれらを「当たり前だ」と考えている人々の意識の根底には、もはや疑問に思う余地すらないほど絶対化した宗教観・宗教的世界観が確実に存在しています。そんな人が同じ口で「いや、私は無宗教ですから」などと言うのですから、そのような自己認識ももはや一つの宗教であるとすら言えるでしょう。
なぜそう言うのか、なぜそのように言えるのか。
「みんながそう言っているから」
「本当かどうかなんてわからない。けれども、周りがやっているからそれに従っている」
要するに、ほとんどの人が何もわからずそうしている、ただなんとなく習慣として行っている。誰かのどこかで聞いた言葉をたいして考えることも無く、ただ受け売りで言っているに過ぎない、というのが現状のようです。それはまさに、多くの日本人がまったく絶対的(無意識的)に信仰している、世間をこそ信じ畏怖の対象とする、山本七平氏が指摘した「日本教」のありかたの一形態というものでもあります。
もっとも、これはそのほとんどが極めて熱心な日本教信者であるところの現代日本人に限ったことではなく、人は文化にまつわる習慣というものの多くについて、その淵源など知らず行っていることが多くあります。そしてその一々を知る必要は必ずしもあるわけでもなく、また知ろうとしてもわからない、という場合すらもあります。
しかしながら、仏教という宗教について、もしくはこれを仏教にまつわる文化的習慣としてでも良いでしょうが、多くの人が読経というものを非常に重要な、欠くべからざる行為の一環として行っています。読経とは些末な一作法や一習慣というのではなく、多くの人にとって極めて重要な位置を占める核心的行為とすらなっている、と言えましょう。にも関わらず、その意義と根拠、本来の目的とを知らずに等閑視したままで、「みんなやっているから、やるのだ」というのでは詮無いことです。そしてそれを放置したままで「何故か」を知らず、考えず、またそのような根本的な無知に気づきもしないのは、蒙昧も甚だしいことだと言えるでしょう。
実は、そのように「なんとなくやっている」・「よくわからんけれどもそうしている」のは日本の僧職者の大部分にも全く同様に言える話で、彼らも実際の所「何故か?」などよくわからず、また疑問に思ったことすらもなく、とりあえず世間に従ってやっているようなのがほとんどです。
しかし、僧職者の場合、その理由など自身らもまるでわかっていなくとも、葬式や法事・廻向などで行う読経がその生業の主軸となっています。読経を小一時間もそれらしく続けることが出来、あとは一般的な商店主と同程度の人付き合いさえ出来れば、日本の坊さんは大体出来るようになっています。そして、世間一般の人々が経の意味内容も読経の意義について全く無知で無関心であるからこそ、それは成り立っています。それはまた今の人が自ら望んでそうしたものでなく、ただ社会の慣習・因習に仕方なく従ってのことなのでしょうけれども、祖先崇拝の一環としての「読経というサービス」を小一時間ほど受けられさえすればとりあえず皆が納得する、といういわば社会的・文化的構造がある。
このような事態は、生まれがたき人間として生まれ、さらに遇いがたき仏法に遭えたという仏教の視点からすれば、あまりに勿体無いことです。